矢島祐利の歌集『麦青きふるさと』は戦前の部、戦後の部、追補に分けてある。前の2つは一周忌の追悼集を出すに当たりつけた書名に由来する。その歌は一九四七年作の
下つ毛は吾のふるさと麦青く雲雀あがれる頃かも今は
である。
これらの歌は矢島由利の努力で図書館の「アララギ」からコピーをして収録したがその後遺品の中に本人が和紙に清書した歌集がありすべて収録していることがわかった。
その清書の歌集が見つかっていない段階で戦前の部を「ももんが」に掲載していただいた。この歌集の原稿入力の際には植字の手間を減らそうとして漢字の読みは横に付けずに括弧付きで示した。しかし、別に収録してある「石原純」関連の記事についてはPDFを念頭に置いてルビ方式にしてある。ただこのやりかたでは行間は不統一となり机上印刷方式は活版方式にはかなわない。
最初の歌は大正13年(1924)「アララギ」17巻、6号のもので岡麓選となっている。また戦前で最後のものは「アララギ」24巻、11号(1931)に掲載された。歌集を編集者としてざっと見ているとずいぶん旅をしているなという感想をもった。あるいは旅に出て人は歌心をよびおこすのかもしれない。また、発見といえば
夜おそく林檎を買ひて来りけるをとめをわれはしみじみと見つ
もらひける水仙の花を瓶にさすいとまごころに夜ぞ更けたる
の二首で前者は18巻、6号(1925年)の作、後者は19巻、1号(1926年)に掲載のものである。矢島祐利と石井せゐ(せい)との結婚は1926年の8月でこれらの歌が生涯の伴侶に対する献歌というべきものであったのではないかと思う。矢島敏彦は母の残した水彩画(これは矢島文夫が京城から引揚げた際に持ち帰ったもの)を知人の写真家に頼みカラー写真にしてくれた。そのなかに林檎の絵があり「みどり色のりんご」と題字され日付は(2.8.2)とあるから1927年に描いたものと思われる。この絵は「うずら文庫」第1ページに収めてある。(1998-12-26
敬二記)
戦前の部(1924年より1931年までの歌)
戦後の部(1946年より1980年まで)
追補(エジプトのうた、蘭の花、「アララギ」との出会い(1)(2),アガメムノンのうたを含む)
自筆 矢島祐利 歌集
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