●略歴
1903年5月2日 栃木県安蘇郡越名(現佐野市)に生まれる。
1926年 東京帝国大学理学部物理学科卒業。
1941-45年 京城帝国大学理工学部教授。
1945年 引揚後GHQ勤務。
1949年 東京物理学校講師となり、東京理科大学の創設に関わる。
1950年 設立と同時に同大学教授。
1973年 同大学定年退職。同大学名誉教授。
国際科学史アカデミー会員であった。
1995年8月12日 没。

理学博士。著書に『物理学史』、『電磁気学史』、『アラビア科学の話』、『アラビア科学史序説』などがあり、訳書に『アルプス紀行』、『ロウソクの科学』、『発見者ファラデー』、『古代の宇宙論』などがある。

●著書目録
 pdfファイルとして作成してあります。
 
●歌集『麦青きふるさと』

 矢島祐利の歌集『麦青きふるさと』は戦前の部、戦後の部、追補に分けてある。前の2つは一周忌の追悼集を出すに当たりつけた書名に由来する。その歌は一九四七年作の

下つ毛は吾のふるさと麦青く雲雀あがれる頃かも今は

である。
 これらの歌は矢島由利の努力で図書館の「アララギ」からコピーをして収録したがその後遺品の中に本人が和紙に清書した歌集がありすべて収録していることがわかった。
 その清書の歌集が見つかっていない段階で戦前の部を「ももんが」に掲載していただいた。この歌集の原稿入力の際には植字の手間を減らそうとして漢字の読みは横に付けずに括弧付きで示した。しかし、別に収録してある「石原純」関連の記事についてはPDFを念頭に置いてルビ方式にしてある。ただこのやりかたでは行間は不統一となり机上印刷方式は活版方式にはかなわない。
 最初の歌は大正13年(1924)「アララギ」17巻、6号のもので岡麓選となっている。また戦前で最後のものは「アララギ」24巻、11号(1931)に掲載された。歌集を編集者としてざっと見ているとずいぶん旅をしているなという感想をもった。あるいは旅に出て人は歌心をよびおこすのかもしれない。また、発見といえば

夜おそく林檎を買ひて来りけるをとめをわれはしみじみと見つ
もらひける水仙の花を瓶にさすいとまごころに夜ぞ更けたる

の二首で前者は18巻、6号(1925年)の作、後者は19巻、1号(1926年)に掲載のものである。矢島祐利と石井せゐ(せい)との結婚は1926年の8月でこれらの歌が生涯の伴侶に対する献歌というべきものであったのではないかと思う。矢島敏彦は母の残した水彩画(これは矢島文夫が京城から引揚げた際に持ち帰ったもの)を知人の写真家に頼みカラー写真にしてくれた。そのなかに林檎の絵があり「みどり色のりんご」と題字され日付は(2.8.2)とあるから1927年に描いたものと思われる。この絵は「うずら文庫」第1ページに収めてある。(1998-12-26 敬二記)

戦前の部(1924年より1931年までの歌) 
 

戦後の部(1946年より1980年まで)
 

追補(エジプトのうた、蘭の花、「アララギ」との出会い(1)(2),アガメムノンのうたを含む)
 

自筆 矢島祐利 歌集
 

 
●国際会議旅行記(1950)

 1950年8月にオランダのアムステルダムで開かれた国際科学史連合総会に矢島祐利は出席する。着用の背広は妻せい子手作りのものであった。第2次大戦のために海外への渡航は初めての経験であった。会議への出席の旅を詳細に記したのが「オランダ日記」と続いて訪れたパリ訪問記が「パリ日記1」「パリ日記2」である。

オランダ日記(1950年8月10日より8月24日)

パリ日記1(同8月24日より9月2日)

パリ日記2(同9月3日より9月17日)

 続いて1953年8月にイスラエルのエルサレムで開かれた国際科学史連合総会に出席し「イスラエル日記」を残した。「イスラエル日記1」は8月16日から「道草日記」という題になる。これは公務の他に私費旅行を計画しアテネとカイロを訪れた日記を指す。また歌集「イスラエル懐古」を含む。

イスラエル日記1(1953年8月1日より8月27日)

イスラエル日記2(1953年8月27日より9月22日)

 これには上記のように「道草日記」の続きと、他に「土屋文明先生の追憶」「アテネの博物館」「歌集うすらつき」「科学史五〇年に想う」を含む。不具合な編集であるがお許しを請う。